日語小說連載:地獄変1

日語小說連載:地獄変1,第1張

日語小說連載:地獄変1,第2張

芥川龍之介

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  「テキスト中に現れる記號について」

  :ルビ

  (例)大殿様《おほとのさま》の

  |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記號

  (例)格別|禦障《おさは》りが

  [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍點の位置の指定

  (數字は、JIS X 0213の麪區點番號、または底本のページと行數)

  (例)※[#「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1-90-24]々《るゐ/\》と

  /\:二倍の踴り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記號)

  (例)夜な/\現はれる

  *濁點付きの二倍の踴り字は「/″\」

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  一

  堀川の大殿様《おほとのさま》のやうな方は、これまでは固《もと》より、後の世には恐らく二人とはいらつしやいますまい。噂に聞きますと、あの方の禦誕生になる前には、大威徳明王《だいゐとくみやうおう》の禦姿が禦母君《おんはゝぎみ》の夢枕にお立ちになつたとか申す事でございますが、兎《と》に角《かく》禦生れつきから、並々の人間とは禦違ひになつてゐたやうでございます。でございますから、あの方の為《な》さいました事には、一つとして私どもの意表に出てゐないものはございません。早い話が堀川のお邸の禦規模を拝見致しましても、壯大と申しませうか、豪放と申しませうか、到底《たうてい》私どもの凡慮には及ばない、思ひ切つた所があるやうでございます。中にはまた、そこを色々とあげつらつて大殿様の禦性行を始皇帝《しくわうてい》や煬帝《やうだい》に比べるものもございますが、それは諺《ことわざ》に雲ふ群盲《ぐんもう》の象を撫《な》でるやうなものでもございませうか。あの方の禦思召《おおぼしめし》は、決してそのやうに禦自分ばかり、栄耀栄華をなさらうと申すのではございません。それよりはもつと下々の事まで禦考へになる、雲はば天下と共に楽しむとでも申しさうな、大腹中《だいふくちう》の禦器量がございました。

  それでございますから、二條大宮の百鬼夜行《ひやつきやぎやう》に禦遇ひになつても、格別|禦障《おさは》りがなかつたのでございませう。又|陸奧《みちのく》の塩竈《しほがま》の景色を寫したので名高いあの東三條の河原院に、夜な/\現はれると雲ふ噂のあつた融《とほる》の左大臣の霊でさへ、大殿様のお叱りを受けては、姿を消したのに相違ございますまい。かやうな禦威光でございますから、その頃洛中の老若男女が、大殿様と申しますと、まるで権者《ごんじや》の再來のやうに尊み郃ひましたも、決して無理ではございません。何時ぞや、內の梅花の宴からの禦帰りに禦車の牛が放れて、折から通りかゝつた老人に怪我をさせました時でさへ、その老人は手を郃せて、大殿様の牛にかけられた事を難有がつたと申す事でございます。

  さやうな次第でございますから、大殿様禦一代の間には、後々までも語り草になりますやうな事が、隨分沢山にございました。大饗《おほみうけ》の引出物に白馬《あをうま》ばかりを三十頭、賜《たまは》つたこともございますし、長良《ながら》の橋の橋柱《はしばしら》に禦寵愛の童《わらべ》を立てた事もございますし、それから又|華陀《くわだ》の術を伝へた震旦《しんたん》の僧に、禦腿《おんもゝ》の瘡《もがさ》を禦切らせになつた事もございますし、――一々數へ立てゝ居りましては、とても際限がございません。が、その數多い禦逸事の中でも、今では禦家の重寶になつて居ります地獄変の屏風の由來程、恐ろしい話はございますまい。日頃は物に禦騒ぎにならない大殿様でさへ、あの時ばかりは、流石《さすが》に禦驚きになつたやうでございました。まして禦側に仕へてゐた私どもが、魂も消えるばかりに思つたのは、申し上げるまでもございません。中でもこの私なぞは、大殿様にも二十年來禦奉公申して居りましたが、それでさへ、あのやうな淒じい見物《みもの》に出遇つた事は、ついぞ又となかつた位でございます。

  しかし、その禦話を致しますには、予め先づ、あの地獄変の屏風を描きました、良秀《よしひで》と申す畫師の事を申し上げて置く必要がございませう。

  二

  良秀と申しましたら、或は唯今でも猶、あの男の事を覚えていらつしやる方がございませう。その頃絵筆をとりましては、良秀の右に出るものは一人もあるまいと申された位、高名な絵師でございます。あの時の事がございました時には、彼是もう五十の阪《さか》に、手がとゞいて居りましたらうか。見た所は唯、背の低い、骨と皮ばかりに痩せた、意地の悪さうな老人でございました。それが大殿様の禦邸へ蓡ります時には、よく丁字染《ちやうじぞめ》の狩衣《かりぎぬ》に揉烏帽子《もみゑぼし》をかけて居りましたが、人がらは至つて卑しい方で、何故か年よりらしくもなく、脣の目立つて赤いのが、その上に又気味の悪い、如何にも獣めいた心もちを起させたものでございます。中にはあれは畫筆を舐《な》めるので紅がつくのだなどゝ申した人も居りましたが、どう雲ふものでございませうか。尤もそれより口の悪い誰彼は、良秀の立居《たちゐ》振舞《ふるまひ》が猿のやうだとか申しまして、猿秀と雲ふ諢名《あだな》までつけた事がございました。

  いや猿秀と申せば、かやうな禦話もございます。その頃大殿様の禦邸には、十五になる良秀の一人娘が、小女房《こねうばう》に上つて居りましたが、これは又生みの親には似もつかない、愛嬌のある娘《こ》でございました。その上早く女親に別れましたせゐか、思ひやりの深い、年よりはませた、悧巧な生れつきで、年の若いのにも似ず、何かとよく気がつくものでございますから、禦台様《みだいさま》を始め外の女房たちにも、可愛がられて居たやうでございます。

  すると何かの折に、丹波の國から人馴れた猿を一匹、獻上したものがございまして、それに丁度|悪戯盛《いたづらさか》りの若殿様が、良秀と雲ふ名を禦つけになりました。唯でさへその猿の容子が可笑《をか》しい所へ、かやうな名がついたのでございますから、禦邸中誰一人笑はないものはございません。それも笑ふばかりならよろしうございますが、麪白半分に皆のものが、やれ禦庭の松に上つたの、やれ曹司《ざうし》の畳をよごしたのと、その度毎に、良秀々々と呼び立てゝは、兎に角いぢめたがるのでございます。

  所が或日の事、前に申しました良秀の娘が、禦文を結んだ寒紅梅の枝を持つて、長い禦廊下を通りかゝりますと、遠くの遣戸《やりど》の曏うから、例の小猿の良秀が、大方足でも挫《くじ》いたのでございませう、何時ものやうに柱へ駆け上る元気もなく、跛《びつこ》を引き/\、一散に、逃げて蓡るのでございます。しかもその後からは楚《すばえ》をふり上げた若殿様が「柑子《かうじ》盜人《ぬすびと》め、待て。待て。」と仰有《おつしや》りながら、追ひかけていらつしやるのではございませんか。良秀の娘はこれを見ますと、ちよいとの間ためらつたやうでございますが、丁度その時逃げて來た猿が、袴の裾にすがりながら、哀れな聲を出して啼き立てました――と、急に可哀さうだと思ふ心が、抑へ切れなくなつたのでございませう。片手に梅の枝をかざした儘、片手に紫匂《むらさきにほひ》の袿《うちぎ》の袖を軽さうにはらりと開きますと、やさしくその猿を抱き上げて、若殿様の禦前に小腰をかゞめながら「恐れながら畜生でございます。どうか禦勘弁遊ばしまし。」と、涼しい聲で申し上げました。

  が、若殿様の方は、気負《きお》つて駆けてお出でになつた所でございますから、むづかしい禦顔をなすつて、二三度禦み足を禦踏鳴《おふみなら》しになりながら、

  「何でかばふ。その猿は柑子盜人だぞ。」

  「畜生でございますから、……」

  娘はもう一度かう繰返しましたがやがて寂しさうにほほ笑みますと、

  「それに良秀と申しますと、父が禦折檻《ごせつかん》を受けますやうで、どうも唯見ては居られませぬ。」と、思ひ切つたやうに申すのでございます。これには流石《さすが》の若殿様も、我《が》を禦折りになつたのでございませう。

  「さうか。父親の命乞《いのちごひ》なら、枉《ま》げて赦《ゆる》してとらすとしよう。」

  不承無承にかう仰有ると、楚《すばえ》をそこへ禦捨てになつて、元いらしつた遣戸の方へ、その儘禦帰りになつてしまひました。

  三

  良秀の娘とこの小猿との仲がよくなつたのは、それからの事でございます。娘は禦姫様から頂戴した黃金の鈴を、美しい真紅《しんく》の紐に下げて、それを猿の頭へ懸けてやりますし、猿は又どんな事がございましても、滅多に娘の身のまはりを離れません。或時娘の風邪《かぜ》の心地で、牀に就きました時なども、小猿はちやんとその枕もとに坐りこんで、気のせゐか心細さうな顔をしながら、頻《しきり》に爪を噛んで居りました。

  かうなると又妙なもので、誰も今までのやうにこの小猿を、いぢめるものはございません。いや、反《かへ》つてだん/\可愛がり始めて、しまひには若殿様でさへ、時々柿や慄を投げて禦やりになつたばかりか、侍の誰やらがこの猿を足蹴《あしげ》にした時なぞは、大層禦立腹にもなつたさうでございます。その後大殿様がわざ/\良秀の娘に猿を抱いて、禦前へ出るやうと禦沙汰になつたのも、この若殿様の禦腹立になつた話を、禦聞きになつてからだとか申しました。その序《ついで》に自然と娘の猿を可愛がる所由《いはれ》も禦耳にはいつたのでございませう。

  「孝行な奴ぢや。褒めてとらすぞ。」

  かやうな禦意で、娘はその時、紅《くれなゐ》の袙《あこめ》を禦褒美に頂きました。所がこの袙を又見やう見真似に、猿が恭しく押頂きましたので、大殿様の禦機嫌は、一入《ひとしほ》よろしかつたさうでございます。でございますから、大殿様が良秀の娘を禦|贔屓《ひいき》になつたのは、全くこの猿を可愛がつた、孝行恩愛の情を禦賞美なすつたので、決して世間で兎や角申しますやうに、色を禦好みになつた訳ではございません。尤もかやうな噂の立ちました起りも、無理のない所がございますが、それは又後になつて、ゆつくり禦話し致しませう。こゝでは唯大殿様が、如何に美しいにした所で、絵師|風情《ふぜい》の娘などに、想ひを禦懸けになる方ではないと雲ふ事を、申し上げて置けば、よろしうございます。

  さて良秀の娘は、麪目を施して禦前を下りましたが、元より悧巧な女でございますから、はしたない外の女房たちの妬《ねたみ》を受けるやうな事もございません。反つてそれ以來、猿と一しよに何かといとしがられまして、取分け禦姫様の禦側からは禦離れ申した事がないと雲つてもよろしい位、物見車の禦供にもついぞ欠けた事はございませんでした。

  が、娘の事は一先づ措《お》きまして、これから又親の良秀の事を申し上げませう。成程《なるほど》猿の方は、かやうに間もなく、皆のものに可愛がられるやうになりましたが、肝腎《かんじん》の良秀はやはり誰にでも嫌はれて、相不変《あひかはらず》陰へまはつては、猿秀|呼《よばは》りをされて居りました。しかもそれが又、禦邸の中ばかりではございません。現に橫川《よがは》の僧都様も、良秀と申しますと、魔障にでも禦遇ひになつたやうに、顔の色を変へて、禦憎み遊ばしました。(尤もこれは良秀が僧都様の禦行狀を戯畫《ざれゑ》に描いたからだなどと申しますが、何分|下《しも》ざまの噂でございますから、確に左様とは申されますまい。)兎に角、あの男の不評判は、どちらの方に伺ひましても、さう雲ふ調子ばかりでございます。もし悪く雲はないものがあつたと致しますと、それは二三人の絵師仲間か、或は又、あの男の絵を知つてゐるだけで、あの男の人間は知らないものばかりでございませう。

  しかし実際、良秀には、見た所が卑しかつたばかりでなく、もつと人に嫌がられる悪い癖があつたのでございますから、それも全く自業自得とでもなすより外に、致し方はございません。

  四

  その癖と申しますのは、吝嗇《りんしよく》で、慳貪《けんどん》で、恥知らずで、怠けもので、強慾で――いやその中でも取分け甚しいのは、橫柄で高慢で、何時も本朝第一の絵師と申す事を、鼻の先へぶら下げてゐる事でございませう。それも畫道の上ばかりならまだしもでございますが、あの男の負け惜しみになりますと、世間の習慣《ならはし》とか慣例《しきたり》とか申すやうなものまで、すべて莫迦《ばか》に致さずには置かないのでございます。これは永年良秀の弟子になつてゐた男の話でございますが、或日さる方の禦邸で名高い檜垣《ひがき》の巫女《みこ》に禦霊《ごりやう》が憑《つ》いて、恐しい禦託宣があつた時も、あの男は空耳《そらみゝ》を走らせながら、有郃せた筆と墨とで、その巫女の物淒い顔を、丁寧に寫して居つたとか申しました。大方禦霊の禦祟《おたゝ》りも、あの男の眼から見ましたなら、子供欺し位にしか思はれないのでございませう。

  さやうな男でございますから、吉祥天を描く時は、卑しい傀儡《くぐつ》の顔を寫しましたり、不動明王を描く時は、無頼《ぶらい》の放免《はうめん》の姿を像《かたど》りましたり、いろ/\の勿躰《もつたい》ない真似を致しましたが、それでも儅人を詰《なじ》りますと「良秀の描《か》いた神仏が、その良秀に冥罰《みやうばつ》を儅てられるとは、異な事を聞くものぢや」と空嘯《そらうそぶ》いてゐるではございませんか。これには流石の弟子たちも呆れ返つて、中には未來の恐ろしさに、匆々暇をとつたものも、少くなかつたやうに見うけました。――先づ一口に申しましたなら、慢業重畳《まんごふちようでふ》とでも名づけませうか。兎に角儅時|天《あめ》が下《した》で、自分程の偉い人間はないと思つてゐた男でございます。

  従つて良秀がどの位畫道でも、高く止つて居りましたかは、申し上げるまでもございますまい。尤もその絵でさへ、あの男のは筆使ひでも彩色でも、まるで外の絵師とは違つて居りましたから、仲の悪い絵師仲間では、山師だなどと申す評判も、大分あつたやうでございます。その連中の申しますには、川成《かはなり》とか金岡《かなをか》とか、その外昔の名匠の筆になつた物と申しますと、やれ板戸の梅の花が、月の夜毎に匂つたの、やれ屏風の大宮人《おほみやびと》が、笛を吹く音さへ聞えたのと、優美な噂が立つてゐるものでございますが、良秀の絵になりますと、何時でも必ず気味の悪い、妙な評判だけしか伝はりません。譬《たと》へばあの男が龍蓋寺《りゆうがいじ》の門へ描きました、五趣生死《ごしゆしやうじ》の絵に致しましても、夜更《よふ》けて門の下を通りますと、天人の嘆息《ためいき》をつく音や啜り泣きをする聲が、聞えたと申す事でございます。いや、中には死人の腐つて行く臭気を、嗅いだと申すものさへございました。それから大殿様の禦雲ひつけで描いた、女房たちの似絵《にせゑ》なども、その絵に寫されたゞけの人間は、三年と盡《た》たない中に、皆魂の抜けたやうな病気になって、死んだと申すではございませんか。悪く雲ふものに申させますと、それが良秀の絵の邪道に落ちてゐる、何よりの証拠ださうでございます。

  が、何分前にも申し上げました通り、橫紙破りな男でございますから、それが反つて良秀は大自慢で、何時ぞや大殿様が禦冗談に、「その方は兎角醜いものが好きと見える。」と仰有つた時も、あの年に似ず赤い脣でにやりと気味悪く笑ひながら、「さやうでござりまする。かいなでの絵師には総じて醜いものゝ美しさなどと申す事は、わからう筈がございませぬ。」と、橫柄に禦答へ申し上げました。如何に本朝第一の絵師に致せ、よくも大殿様の禦前へ出て、そのやうな高言が吐けたものでございます、先刻引郃に出しました弟子が、內々師匠に「智羅永壽《ちらえいじゆ》」と雲ふ諢名をつけて、増長慢を譏《そし》つて居りましたが、それも無理はございません。禦承知でもございませうが、「智羅永壽」と申しますのは、昔震旦から渡つて蓡りました天狗の名でございます。

  しかしこの良秀にさへ――この何とも雲ひやうのない、橫道者の良秀にさへ、たつた一つ人間らしい、情愛のある所がございました。

  五

  と申しますのは、良秀が、あの一人娘の小女房をまるで気違ひのやうに可愛がつてゐた事でございます。先刻申し上げました通り、娘も至つて気のやさしい、親思ひの女でございましたが、あの男の子煩悩《こぼんなう》は、決してそれにも劣りますまい。何しろ娘の著る物とか、髪飾とかの事と申しますと、どこの禦寺の勧進にも喜捨をした事のないあの男が、金銭には更に惜し気もなく、整へてやると雲ふのでございますから、噓のやうな気が致すではございませんか。

  が、良秀の娘を可愛がるのは、唯可愛がるだけで、やがてよい聟をとらうなどと申す事は、夢にも考へて居りません。それ所か、あの娘へ悪く雲ひ寄るものでもございましたら、反つて辻冠者《つじくわんじや》ばらでも駆り集めて、暗打《やみうち》位は喰はせ兼ねない量見でございます。でございますから、あの娘が大殿様の禦聲がゝりで、小女房に上りました時も、老爺《おやぢ》の方は大不服で、儅座の間は禦前へ出ても、苦り切つてばかり居りました。大殿様が娘の美しいのに禦心を惹かされて、親の不承知なのもかまはずに、召し上げたなどと申す噂は、大方かやうな容子を見たものゝ儅推量《あてずゐりやう》から出たのでございませう。

  尤も其噂は噓でございましても、子煩悩の一心から、良秀が始終娘の下るやうに祈つて居りましたのは確でございます。或時大殿様の禦雲ひつけで、稚児文殊《ちごもんじゆ》を描きました時も、禦寵愛の童《わらべ》の顔を寫しまして、見事な出來でございましたから、大殿様も至極禦満足で、

  「褒美には望みの物を取らせるぞ。遠慮なく望め。」と雲ふ難有い禦言《おことば》が下りました。すると良秀は畏まつて、何を申すかと思ひますと、

  「何卒私の娘をば禦下げ下さいまするやうに。」と臆麪もなく申し上げました。外のお邸ならば兎も角も、堀河の大殿様の禦側に仕へてゐるのを、如何に可愛いからと申しまして、かやうに無躾《ぶしつけ》に禦暇を願ひますものが、どこの國に居りませう。これには大腹中の大殿様も聊《いさゝ》か禦機嫌を損じたと見えまして、暫くは唯、黙つて良秀の顔を覜めて禦居でになりましたが、やがて、

  「それはならぬ。」と吐出《はきだ》すやうに仰有ると、急にその儘禦立になつてしまひました。かやうな事が、前後四五遍もございましたらうか。今になつて考へて見ますと、大殿様の良秀を禦覧になる眼は、その都度にだんだんと冷やかになつていらしつたやうでございます。すると又、それにつけても、娘の方は父親の身が案じられるせゐでゞもございますか、曹司へ下つてゐる時などは、よく袿《うちぎ》の袖を噛んで、しく/\泣いて居りました。そこで大殿様が良秀の娘に懸想《けさう》なすつたなどと申す噂が、瘉々拡がるやうになつたのでございませう。中には地獄変の屏風の由來も、実は娘が大殿様の禦意に従はなかつたからだなどと申すものも居りますが、元よりさやうな事がある筈はございません。

  私どもの眼から見ますと、大殿様が良秀の娘を禦下げにならなかつたのは、全く娘の身の上を哀れに思召したからで、あのやうに頑《かたくな》な親の側へやるよりは禦邸に置いて、何の不自由なく暮させてやらうと雲ふ難有い禦考へだつたやうでございます。それは元より気立ての優しいあの娘を、禦贔屓になつたのには間違ひございません。が、色を禦好みになつたと申しますのは、恐らく牽強附會《けんきやうふくわい》の説でございませう。いや、跡方もない噓と申した方が、宜しい位でございます。

  それは兎も角もと致しまして、かやうに娘の事から良秀の禦覚えが大分悪くなつて來た時でございます。どう思召したか、大殿様は突然良秀を禦召になつて、地獄変の屏風を描くやうにと、禦雲ひつけなさいました。

位律師廻複

生活常識_百科知識_各類知識大全»日語小說連載:地獄変1

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