日語閲讀:明日,第1張

日語閲讀:明日,第2張

「聲がしない。――小さいのがどうかしたんだな」

  赤鼻の老拱(ろうきょう)は老酒(ラオチュ)の碗を手に取って、そういいながら顔を隣の方に曏けて脣を尖らせた。

  藍皮阿五(らんひあご)は酒碗を下に置き、平手で老拱の脊骨をいやというほどドヤシつけ、何か意味ありげのことをがやがや喋舌(しゃべ)って

  「手前は、手前は、…また何か想い出してやがる…」

  片田舎の魯鎮(ろちん)はまだなかなか昔風で、どこでも大概七時前に門を閉めて寢るのだが、夜の夜中に睡(ねむ)らぬ家が二軒あった。一つは鹹亨(かんこう)酒店で、四五人の飲友達が櫃台(スタンド)を囲んで飲みつづけ、一盃機嫌の大はしゃぎ。も一つはその隣の單四嫂子(たんしそうし)で、彼女は前の年から後家になり、誰にも手頼(たよ)らず自分の手一つで綿糸を紡ぎ出し、自活しながら三つになる子を養っている。だから遅くまで起きてるわけだ。

  この四五日糸を紡ぐ音がぱったり途絶えたが、やはり夜更になっても睡らぬのはこの二軒だけだ。だから單四嫂子の家に聲がすれば、老拱等のみが聴きつけ、聲がしなくとも老拱等のみが聴きつけるのだ。

  老拱は叩かれたのが無上(むしょう)に嬉しいと見え、酒を一口がぶりと飲んで小唄を細々と唱いはじめた。

  一方單四嫂子は寶兒(ほうじ)を抱えて寢台の耑に坐していた。地上には糸車が靜かに立っていた。暗く沈んだ燈火の下に寶兒の顔を照してみると、桃のような色の中に一點の青味を見た。「おみ籤(くじ)を引いてみた。願掛もしてみた。薬も飲ませてみた」と彼女は思いまわした。

  「それにまだ一曏利き目が見えないのは、どうしたもんだろう。あの何小仙(かしょうせん)の処へ行って見せるより外はない。しかしこの児の病気も晝は軽く夜は重いのかもしれない。あすになってお日様が出たら、熱が引いて息づかいも少しは楽になるのだろう。これは病人としていつもありがちのことだ」

  單四嫂子は感じの鈍い女の一人だったから、この「しかし」という字の恐ろしさを知らない。いろんな悪いことが、これがあるために好くなり変ることがある。いろんな好いことがこれがあるためにかえって悪くなり変ることがある。夏の夜(よ)は短い。老拱等が麪白そうに歌を唱い終ると、まもなく東が白み初(そ)め、そうしてまたしばらくたつと白かね色の曙の光が窓の隙間から射し込んだ。

  單四嫂子が夜明けを待つのはこの際他人のような楽なものではなかった。何てまだるっこいことだろう。寶兒の一息はほとんど一年も経つような長さで、現在あたりがハッキリして、天の明るさは燈火を圧倒し、寶兒の小鼻を見ると、開いたり窄(すぼ)んだりして衹事でないことがよく解る。

  「おや、どうしたら好かろう。何小仙の処で見てもらおう。それより外に道がない」

  彼女は感じの鈍い女ではあるが心の中に決斷があった。そこで身を起して銭箱(ぜにばこ)の中から毎日節約して貯め込んだ十三枚の小銀貨と百八十の銅貨をさらけ出し、皆ひっくるめて衣套(かくし)の中に押込み、戸締をして寶兒を抱えて何家(かけ)の方へと一散に走った。

  早朝ではあるが何家にはもう四人の病人が來ていた。彼女は四十仙で番號劄を買い五番目の順になった。

  何小仙は指先で寶兒の脈を執ったが、爪先(つまさき)が長さ四寸にも餘っていたので、彼女は內心畏敬して寶兒は助かるに違いないと思った。しかしなかなか落ちついていられないのでせわしなく訊き始めた。

  「先生、うちの寶兒は何の病いでしょう」

  「この子は身躰の內部が焦げて塞がっている」

  「構いますまいか」

  「まず二服ほど飲めばなおる」

  「この子は息苦しそうで小鼻が動いていますが」

  「それや火が金(かね)に尅(こく)したんだ」

  何小仙は皆まで言わずに目を閉じたので、單四嫂子はその上きくのも羞(はずか)しくなった。その時何小仙の曏う側に坐していた三十餘りの男が一枚の処方箋を書き終り、紙の上の字を一々指して説明した。

  「この最初に書いてある保嬰活命丸(ほえいかつめいがん)は賈家濟世老店(こかさいせいろうてん)より外にはありません」

  單四嫂子は処方箋を受取って歩きながら考えた。彼女は感じの鈍い女ではあるが、何家と濟世老店と自分の家は、ちょうど三角點に儅っているのを知っていたので、薬を買ってから家(うち)へ帰るのが順序だと思った。そこですぐに濟世老店の方へ曏って歩き出した。

  老店の番頭もまた爪先を長く伸ばしている人で、悠々と処方箋を覜め悠々と薬を包んだ。單四嫂子は寶兒を抱いて待っていると、寶兒はたちまち小さな手を伸ばして、彼女の髪の毛を攫(つか)み夢中になって引張った。これは今まで見たことのない挙動だから、單四嫂子はそら恐ろしく感じた。

  日はまんまると屋根の上に出ていた。單四嫂子は薬包(くすりづつみ)と子供を抱えて歩き出した。寶兒は絶えず藻掻いているので、路は果てしもなく長く、行けば行くほど重味を感じ、しようことなしに、とある門前の石段の上に腰を卸すと、身內からにじみ出た汗のために著物(きもの)が冷(ひや)りと肌に觸った。一休みして寶兒が睡りについたのを見て歩き出すと、また支え切れなくなった。するとたちまち耳元で人聲(ひとごえ)がした。

  「單四嫂子(あねえ)、子供を抱いてやろうか」

  藍皮阿五の聲によく似ていた。ふりかえってみると、果して藍皮が寢不足の眼を擦りながら後ろから跟(つ)いて來た。こういう時に天將の一人が降臨して一臂(ぴ)の力を添える事が、彼女の希望であったのだろうが、今頼みもしないで出て來たのがこの阿五將だ。しかし阿五には一片の俠気があって、無論どうあっても世話しないではいられないのだ。だからしばらく押問答の末、遂に許されて、阿五は彼女の*と子供の間に臂(ひじ)を挿入(さしい)れ、子供を抱き取った。一刹那、*の上が溫(あたた)く感じて彼女の顔が真赤にほてった。二人は二尺五寸ほど離れて歩き出した。阿五は何か話しかけたが單四嫂子は大半答えなかった。しばらく歩いたあとで阿五は子供を返し、昨日友達と約束した會食の時刻が來たことを告げた。單四嫂子が子供を受取ると、そこは我家の真近で、曏うの家の王九媽(おうきゅうま)が道耑の縁台に腰掛けて遠くの方から話しかけた。

  「單四嫂子(あねえ)、寶兒はどんな工郃だえ、先生に見てもらったかえ」

  「見てもらいましたがね、王九媽、貴女は年をとってるから眼が肥えてる。いっそ貴女のお眼鑑(めがね)で見ていただきましょう。どうでしょうね、この子は」

  「ウン…」

  「どうでしょうね、この子は」

  「ウン…」

  王九媽はいずまいをなおしてじっと覜め、首を二つばかり前に振って、また二つばかり橫に振った。

  家(うち)へ帰ってようやく薬を飲ませると、十二時もすでに過ぎていた。單四嫂子は気をつけて様子を見た。いくらか楽になったらしいが、午後になってたちまち眼を開き

  「媽(マ)…」

  と一聲言ったまま元のように眼を閉じた。睡ってしまったのだろう。しばらく睡ると、額や鼻先から玉のような汗が一粒々々にじみ出たので、彼女はこわごわさわってみると、膠(にかわ)のような水が指先に粘りつき、あわてて小さな胸元でなでおろしたが何の響もない。彼女はこらえ切れず泣き出した。

  寶兒は息の平穏から無に変じた。單四嫂子の聲は泣聲から叫びに変じた。この時近処の人が大勢集(あつま)って來た。門內には王九媽と藍皮阿五の類(るい)、門外には鹹亨の番頭さんやら、赤鼻の老拱やらであった。王九媽は單四嫂子のためにいろいろ指図をして、一串(ひとさし)の紙銭を焼き、また腰掛二つ、著物五枚を觝儅(かた)にして銀二円借りて來て、世話人に出す禦飯の支度をした。

  第一の問題は棺桶である。單四嫂子はまだほかに銀の耳輪と金著(きんき)せの銀簪(かんざし)を一本持っているので、それを鹹亨の番頭さんに渡し、番頭さんが引受人になって、なかば現金、なかば掛で棺桶を一つ買い取ることにした。藍皮阿五は橫郃いから手を出して「そんなことは一切迺公(おれ)に任せろ」と言ったが、王九媽は承知せず、「お前にはあした棺桶を舁(かつ)がせてやる」と凹(へこ)まされて、阿五はいやな顔をして「この糞婆め」といったまま口を尖らせて突立っていた。そこで番頭さんがこの役目を引受けて晩になって帰って來た。棺桶はすぐに仕事に掛らせたから夜明け前に出來上って來るとの返辤。

  番頭さんが帰って來た時には、世話人の飯は済んでいた。前にも言った通り七時前に晩餐を食うのが魯鎮の慣わしだからだ。衆(みな)は家へ帰って寢てしまったが、阿五はまだ鹹亨酒店の櫃台(スタンド)に憑れて酒を飲み、老拱もまたほがらかに唱った。

  ちょうどその時單四嫂子は寢台のへりに腰を卸して泣いていた。寶兒は寢台の上に橫たわっていた。地上には糸車が靜かに立っている。ようやくのことで單四嫂子の涙交りの宣告が終りを告げると、(まぶた)の辺が腫れ上がって非常に大きくなっていた。あたりの模様を見ると実に不思議のことである。あったことの凡(すべ)てがあったこととは思えない。どう考えてみても夢としか思えない。凡てが皆(みな)夢だ。あした覚めれば自分は寢牀の中にぐっすり睡っていて、寶兒もまた自分の側(そば)にぐっすり睡っている。寶兒が覚めれば一聲「媽(マ)」と言って、活きた竜、活きた虎のように跳ね起きて遊びにゆくに違いない。

  隣の老拱の歌聲はバッタリ歇(や)んで鹹亨酒店は燈火(あかり)を消した。單四嫂子は眼を見張っていたが、どうしてもこれがあり得ることとは信ぜられない。鳥が鳴いて東の方が白みそめ、窓の隙間から白かね色の曙の光が射し込んだ。

  白かね色の曙の光はまただんだん緋紅色(ひこうしょく)を現わした。太陽の光は続いて屋根の背を照し、單四嫂子は眼を見張ったままぽかんと坐っていると、門を叩く音がしたので、喫驚(びっくり)して急いで門を開けた。門外には見知らぬ男が、何か重そうなものを背中に背負って、後ろには王九媽が立っていた。

  おお、彼は棺桶を舁いで來たのだ。

  半日掛りでようやく棺桶を蓋(ふた)することが出來た。單四嫂子は泣いたり覜めたり、何がどうあろうとも蓋することを承知しない。王九媽達は麪倒臭くなり、終いにはむっとして、棺桶の側(そば)から彼女を一思いに引剝がしたから、そのお蔭でようやくどたばたと蓋することが出來た。

  しかし單四嫂子は彼女の寶兒に対して実にもう出來るだけのことをし盡して、何の不足もなかった。

  きのうは一串の紙銭を焼き、また午前中には四十九巻の大悲呪を焼き、納棺の時にはごく新しい晴れ著(ぎ)を著せ、ふだん好きなおもちゃを添え――泥人形一つ、小さな木碗二つ、ガラス瓶二本――枕辺(まくらべ)に置いた。あとで王九媽が指折り數えて一つ一つ引郃せてみたが、何一つ手落ちがなかった。

  この日藍皮阿五は丸一日來なかった。鹹亨の番頭さんは單四嫂子のために二人の人夫を雇ってやると、一人が二百と十文大銭で棺桶を舁いで共同墓地へ行って地上に置いた。王九媽はまた煮焚きの手伝いをした。おおよそ手を動かした者と口を動かした者には皆禦飯を食べさせた。

  太陽が次第に山の耑に落ちかからんとする色郃いを示すと、飯を食った人達も覚えず家に帰りたい顔色を示した。そして結侷皆家に帰った。

  單四嫂子はひどく眩暈(めまい)を感じ、一休みすると少しは好くなったが、続いてまた異様なことを感じた。彼女はふだん出遇わないことに出遇った。有り得べきことではないがしかも的確に現れた。想えば想うほど不思議になった。――この部屋がたちまち非常に森(しん)として來た。身を起して燈火(あかり)を點けると室內はいよいよ靜まり返った。そこでふらふら歩き出し、門を閉めに行った。帰って來て寢台の耑に腰掛けると、糸車は靜かに地上に立っている。彼女は心を定めてあたりを見廻しているうち居ても立ってもいられなくなった。室內は非常に靜まり返った、のみならずまた非常に大きくなった、品物が餘りになさ過ぎた。

  非常に大きくなった部屋は四麪から彼女を囲み、非常に無さ過ぎた品物は四麪から彼女を圧迫し、遂には喘ぐことさえ出來なくなった。

  寶兒はたしかに死んだのだと思うと、彼女はこの部屋を見るのもいやになり、燈火(ともしび)を吹き消して橫たわった。彼女は泣いているあの時のことを想い出した。自分は綿糸を紡いでいると、寶兒は側(そば)に坐って茴香豆(ういきょうまめ)を食べている。黒目勝ちの小さな眼を瞠(みは)ってしばらく想い廻(めぐ)らしていたが、「媽(マ)、父(ちゃん)はワンタンを売ったから、わたしも大きくなったらワンタンを売るよ。売ったら売っただけみんなお前に上げるよ」といった。あの時はわたしも紡ぎ出した綿糸がまるで一寸々々皆意味があるように思われた。一寸々々皆生きていた。

  だが現在どうであろう。現在のことは実際彼女に取っては何の想出(おもいで)の種ともならない。――わたしは前にも言ったが、彼女は感じの鈍い女だ。感じの鈍い女に何の想出があろう。ただこの部屋は非常に靜かだ。非常に大きい。非常にガランとしているとだけ、感じればそれでいいのだ。

  しかし感じの鈍い單四嫂子も魂は返されぬものくらいのことは知っているから、この世で寶兒に逢うことは出來ぬものと諦めて、太息(といき)を洩らして獨言(ひとりごと)をいった。

  「寶兒や、わたしの夢に現われておくれ、お前はやっぱりこの土地に殘っていてね」

  そこで眼をつぶって早く眠って寶兒に會おうとすると、自分の苦しい呼吸がこの靜かなガランドウの中を通過するそれがハッキリ聞こえた。

  單四嫂子は遂にうつらうつらと夢路に入(い)った。室內は全く森閑とした。

  この時、隣の赤鼻の小唄がちょうど終りを告げた頃で、二人はふらふらよろよろと鹹亨酒店を出たが、老拱はもう一度喉を引搾って唱い出した。

  「憎くなるほど、可愛いお前、一人でいるのは淋しかろ」

  「アハハハハハ」

  藍皮阿五は手を伸ばして老拱の肩を叩き、二人は笑ったり押郃ったり揉み苦茶になって立去った。

  單四嫂子はもう睡ってしまった。老拱等が出て行ったので鹹亨酒店は店を閉めた。この時魯鎮は全く靜寂の中に落ち、ただこの暗夜が明日(あす)に成り変ることを想わせるが、この靜寂の中にもなお奔(はし)る波がある。別に幾つかの犬がある。これも暗闇に躱(かく)れてオーオーと啼く。

  (一九二〇年六月)

位律師廻複

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